2010年09月10日
「メロディー」と「詩」
「メロディー」と「詩」について書こうと思います。
「作曲」は「メロディー」を作る作業
「作詞」は「詩」を作る作業
このことは誰もが理解出来る事
様々な考え方があると思うが、
私個人の考えとして「うた」になれば
「メロディー」と「詩」は50%×50%であるべき。
との立場をとっています。
詩がメロディーに乗る事で響く世界
があるように思うからです。
詩に比重をおくならば、表現手段としては、
文学における「詩(ポエム)」でいいと思うし、
メロディー(和声やリズムとの関係を含む)に
比重を置くならば、インストロメンタルでいい。
と考えています。
「うた」は楽器であるとよく言いますが、
個によって微妙に違う声の持つ質感や表現方法などの
要素が絡み合って一つの表現手段になると思うからです。
詩に関して私が音楽専門学校などで講義をする時に
よく話す事で、「語群」に関する話がある。
「膝が笑う」という表現があるが、言葉としておかしい。
「笑う」の部分が「痛い」とか「かゆい」ならどうだ。
「膝」と「かゆい」は同じ語群。
「膝」と「笑う」は違う語群。
一見相反する要素が結び付いた時に「感慨」が生まれる。
「言い得て妙」「うまいこと言うね〜!」となる。
ユーミンンの「卒業写真」の冒頭。
「悲しい事があると」
「開く皮の表紙」
「卒業写真のあの人はやさしい目をしてる」
名曲の一説ですが、これが…
「悲しい事があると」
「涙がでちゃうのよ」
「卒業写真の〜」
だとすると「感動」に繋がらない。
2行目が「涙が出ちゃうのよ」だと聴き手は聞き流す。
多くの人の想像の範囲内にあるからだ。
「開く皮の表紙」とくれば「なんだ?」というような
感覚になる。「どうなるんだ?」ってな案配。
その聴き手の「なんだ?」という感覚の中で、
あのメロディーに乗せて、
「♪卒業写真の〜♪」とくるから、
聴き手の中で一気にイメージが膨らむのである。
その瞬間、勝負は決している。
極端な話、その後が「優しい目をしてる」でも
「そのままだったから」でも大した差はない。
要はこの2行目が説明になっていないから良い。
「悲しい」と「涙」は同じ国群
「悲しい」と「皮の表紙」は違う国群
その相反するものを加味しながら、
聴き手が意識の中で自由に結びつけてゆく。
これは国の文化や、多くの人が共有する文化があって
初めて成立する。「言い得て妙」にならないと…。
例えば西洋のジョーク
日本人には理解出来ないものが多い
例えば…。
ある英国人がオーストラリアへ移住しようと
移民局で手続きを始めました
移民局:「犯罪歴はありますか?」
英国人:「やはり必要なんですか?」
これはオーストラリアが流刑植民地であったことを
社会構造に伴う共通認識があってはじめて通用する。
日本人の感覚では、判ったとしても「笑えない」
そのような多くの人々が共有出来る表現や
「流行」も含めた社会の共通認識が含まれる事が
「詩」における重要な要素なのだと考えている。
先に述べたように「うた」である以上、
音楽的な要素と切り離す事は出来ない。
例えば
「卒業写真のあの人は優しい目をしてる」
の部分で、音楽的に解決するのかそうでないのか…。など、
メロディーと詩が相対的に絡み合って時間軸に沿い進行して
ゆくことこそが音楽が「時間芸術」といわれる所以。
ん〜、やっぱ長くなっちゃうな〜。
今回は「詩」への比重が大きかったような…。
機会があれば比重を音楽的な所に置いて書いてみよう。